東京競馬会により東京府下荏原郡池上村(現大田区池上六〜八丁目)の耕地に
13万円余をかけて池上競馬場が建設される
1906(明39)年11月:11月、12月と池上競馬場にて4日間開催される(主催:東京競馬会)
これが日本人による初の馬券付き競馬となる
15,000人の入場者を集め96万円の売上を記録し大盛況を呈した
明治政府は、先の日露戦争で帝政ロシアのコザック兵の馬に対して日本の馬が著しく劣り苦戦を強いられたことから
軍馬の改良・増産を目指して競馬を奨励していた
1907(明40)年3月:日本競馬会が設立されたが
前年の池上競馬で実証された多大な収益性も大きな動機付けとなっていた
1908(明41)年:競馬法が施行され、馬券の発売が禁止された
そのため、各地の競馬場は閑古鳥が鳴く始末であった
政府は、こうした競馬場を統合させ補助金を与えて、引き続き馬の改良・増産を図った
東京競馬会(池上)、京浜競馬倶楽部(川崎)、日本競馬会(目黒)、東京ジョッキー倶楽部(板橋)
それら4つの競馬法人が統合され
1910(明43)年:現在の中央競馬(JRA)の前身である東京競馬倶楽部が設立された
この合併により川崎、板橋、池上の競馬場は廃止され、目黒だけがそのまま残された
馬券発売禁止の下で開催された同倶楽部の第一回競馬(目黒競馬場)では
政府補助による賞金の獲得を各馬が競うという内容で
お金を賭けられない観客としては興味をそがれるものであった
(裏では闇馬券の発売も行われ、著名人など十三人が検挙される事件もおきている)
1914(大3)年:目黒競馬場では勝馬の的中者にデパートの商品券を贈呈するという余興を始めたりもした
1923(大12)年:馬券の効用を見直した政府は、馬券発売を認める「競馬法」を制定し
関東大震災による惨事の直後にもかかわらず、一万六千人を超す入場者を集めた
その後、各地の競馬場は、再び活気を取り戻した
東京都大田区池上
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